てけれっつのぱ!

悪口雑言罵詈誹謗録

お涙頂戴という「仕事」


女心の唄 ♪ バーブ佐竹 (1983) - YouTube

 少し前にテレビの端になんとなく映ってたような気がする、30代後半ぐらいの女性タレントが子供を出産したら先天性の障害があったそうで、彼女はそれについて本を出版し、現在はタレント活動のほか各地で講演をしているという。
 私はその話をラジオで聞いていたのだが、その女性はしゃべってる途中で感情が高まりうっ、と沈黙する場面があったりして、おおやっとるね、という気がした。
 自らの身に起こった悲劇を、同じ苦しみを持つ人々と共に分かち合いたい。大変結構なことだ。それと同時に、そのような運命のいたずらに苦悩しながら芸能活動を続ける私の姿も見てもらいたい。「不幸を売り物にしている」とは言わないけれど、そういう気持ちが全くないわけではないはずだ。そりゃ誰にだって生活はあるのであり、それを賄うための方法として他に取り柄がないのなら、そういうやり方を否定するつもりはない。
 しかしそういう生き方というか、一種のキャラクターを選択したら、ある程度生活上で制限されることが出てくる。これは仮定の話だが、例えば急にテレビに登場する服装が派手になったり、高級外車に乗ってる姿をマスコミに見せたり、ウンコ座りでタバコを吸い、その辺の屑籠を蹴り上げたりすれば、視聴者大衆はなんなのあの人、と思ってしまうだろう。
 裏では何をやっているか知らないが、表では与えられた「役柄」や「イメージ」を演じる。これはサラリーマンでも公務員でも同じことで、警官が少女を誘拐したり、学校の教員が出会い系サイトで女子高生を買ったりすれば、大衆はけしからんと怒るのである。これは何がけしからんのかと言えば、つまり一般的に与えられている「役柄のイメージ」と合わないから駄目だ、という意味なのだ。
 そこで、だ。日本には選挙中やその直前において候補者が死亡したりすると、その息子や妻が代わりに出馬するという不思議な習慣が時々あって、それが意外に当選しちゃったりする。まさに民度の低さのあらわれだとは思うのだけれど、とにかく血さえつながっていれば、どんなクルクルパーでも投票してしまうのだ。そのときに効果的に用いられるのが、いわゆる「涙」であり「物語」である。
 父の夫の遺志を継ぎ、私はこのマチのために立ち上がります。何も知らない私ですが、悲しみを乗り越え先代の思いを胸にしっかりと国政で発揮しますよよよよよよよ、と涙ながらに語る息子娘妻の姿を見て、支持者たちは感情移入して票を入れるのだ。
 全く馬鹿げた猿芝居であり、国政レベルになりゃ当人たちは東京に大邸宅を構え、王侯貴族みたいな「セレブな」暮らしをしているのである。それが鼻水垂らした汚い農夫と握手なんかして、地域のみなさまと共に、などと適当な嘘泣きをするのを見て有難がっているというのは、まあ老人といえど人の世の荒波も地獄も知らず、息子を装う偽電話一本で飛び上がり大金を振り込むようなお人好しだらけになるわなという気がしてくる。イノセントというよりフール、スチューピッド、ガッデムアスホールなのではないか。
 人様の死を「ネタ」に票を集めるというのは、相当下衆なやり口なのだ。それで売っておきながら、一生喪に服するような顔して実は路上でキスしてたなんてのは、詐欺師としても仕事が甘いと思う。「どうせ私を だますなら だまし続けて 欲しかった」。地元は呆れて、涙も出ないのではないか。